ワックスデンチャー(蝋義歯)
医療の業界紙に書いた文章をココにも載せてみます。
先日商店街の会合の後、友人と2人で近くへ流れた。悪い酒ではないはずだったが、次の日、最後に行った店が思い出せなかった。いつもなら気にもとめないが、その時なにかが気になり友人に電話した。すると彼は、帰ろうとする私を強引にMさんの店に連れて行ったと教えてくれた。そこへ行くととても驚いていたこと。凄い偶然だと、何度も繰り返していたことなどを、私の記憶をなぞるように詳しく語った。記憶が少しずつよみがえった。
もう7年以上も経っただろうか。開業間もない私は、やる気がみなぎり、それまで培ってきた歯科治療の知識や術式をフル回転させ何が何でも自分が最適だと考える治療を行おうとしてきた。
そんなとき、Oさんは紹介でいらっしゃった。重度の歯周病でセオリーどおりに治療を進めた。治療は順調だった。計画通りに治っていくさまをレントゲンや写真でスタッフやOさんに得意げに説明したりもした。
次は入れ歯の仮合わせだというとき、私は、体が細くなってきたOさんに「なんだか、少し痩せたんじゃないですか。」と声をかけた。ある業界で指導的な立場にいたOさんは姉御肌の人だった。彼女はさっぱりとした物言いでこう返した。「そぎゃんたい。折角人が痩せよるとに、会う人会う人、癌じゃなかつね。て言わすとよ。他に言いようのあって思わん?」なにか女心を垣間見たような気がして、もうそのことに触れるのを止めた。
ひと月ほど来院が途絶えそろそろフォローの電話だなとスタッフと話していた。
Oさんを紹介してくれた方から電話があった。「おい、Oさんがガンで亡くなったぞ。お前のとこに通いよらしたろ。」言葉を失った。なにか責められているような気になった。
葬式の後、Oさんの家を訪ねた。ご主人のMさんが迎えてくれた。初めて会うMさんの沈んだ表情に少し気が重くなった。思い切って切り出した。痩せていく奥さんのことが分かっていながら、適切な紹介が出来なかったことを謝った。歯科とはいえ、医療機関の主治医としての責任を認め、わびた。口の中は良くなったものの肝心の命は救えなかったのだ、お前は歯しか診ないのかと責められることは覚悟の上だった。
「先生、そんなふうに言わないで下さい。そういわれると私の立場がありません。毎日顔をあわせていたのは私ですから・・・。病院に行こうとしなかったんです、彼女は。やっと向こうが折れて私の友人の病院にかかったときはすでに手遅れでした。多分本人が一番分かっていたのだと思います。」
少しだけこころが軽くなった私は、思い切って、箱から思い出の品を取り出した。「これが、次に入れ歯になり奥さんのお口に入る予定だったものです。」咬合器に付けたワックスデンチャーをそっと差し出した。Mさんは少し戸惑ったが、すぐにそれを優しく手に取った。
数年後そこは内装ががらりと変わってしまっていた。Mさんは早期退職に応じ、奥さんのいない一人ぼっちの家をお酒の飲める店へと生まれ変わらせたのだった。私は酔いに任せて色々なことを語りつつ、目線をあちこちに巡らせていた。あのワックスデンチャーを探していたのだ。どこかにひっそりと置いてあるような気がしてならなかった。
先日商店街の会合の後、友人と2人で近くへ流れた。悪い酒ではないはずだったが、次の日、最後に行った店が思い出せなかった。いつもなら気にもとめないが、その時なにかが気になり友人に電話した。すると彼は、帰ろうとする私を強引にMさんの店に連れて行ったと教えてくれた。そこへ行くととても驚いていたこと。凄い偶然だと、何度も繰り返していたことなどを、私の記憶をなぞるように詳しく語った。記憶が少しずつよみがえった。
もう7年以上も経っただろうか。開業間もない私は、やる気がみなぎり、それまで培ってきた歯科治療の知識や術式をフル回転させ何が何でも自分が最適だと考える治療を行おうとしてきた。
そんなとき、Oさんは紹介でいらっしゃった。重度の歯周病でセオリーどおりに治療を進めた。治療は順調だった。計画通りに治っていくさまをレントゲンや写真でスタッフやOさんに得意げに説明したりもした。
次は入れ歯の仮合わせだというとき、私は、体が細くなってきたOさんに「なんだか、少し痩せたんじゃないですか。」と声をかけた。ある業界で指導的な立場にいたOさんは姉御肌の人だった。彼女はさっぱりとした物言いでこう返した。「そぎゃんたい。折角人が痩せよるとに、会う人会う人、癌じゃなかつね。て言わすとよ。他に言いようのあって思わん?」なにか女心を垣間見たような気がして、もうそのことに触れるのを止めた。
ひと月ほど来院が途絶えそろそろフォローの電話だなとスタッフと話していた。
Oさんを紹介してくれた方から電話があった。「おい、Oさんがガンで亡くなったぞ。お前のとこに通いよらしたろ。」言葉を失った。なにか責められているような気になった。
葬式の後、Oさんの家を訪ねた。ご主人のMさんが迎えてくれた。初めて会うMさんの沈んだ表情に少し気が重くなった。思い切って切り出した。痩せていく奥さんのことが分かっていながら、適切な紹介が出来なかったことを謝った。歯科とはいえ、医療機関の主治医としての責任を認め、わびた。口の中は良くなったものの肝心の命は救えなかったのだ、お前は歯しか診ないのかと責められることは覚悟の上だった。
「先生、そんなふうに言わないで下さい。そういわれると私の立場がありません。毎日顔をあわせていたのは私ですから・・・。病院に行こうとしなかったんです、彼女は。やっと向こうが折れて私の友人の病院にかかったときはすでに手遅れでした。多分本人が一番分かっていたのだと思います。」
少しだけこころが軽くなった私は、思い切って、箱から思い出の品を取り出した。「これが、次に入れ歯になり奥さんのお口に入る予定だったものです。」咬合器に付けたワックスデンチャーをそっと差し出した。Mさんは少し戸惑ったが、すぐにそれを優しく手に取った。
数年後そこは内装ががらりと変わってしまっていた。Mさんは早期退職に応じ、奥さんのいない一人ぼっちの家をお酒の飲める店へと生まれ変わらせたのだった。私は酔いに任せて色々なことを語りつつ、目線をあちこちに巡らせていた。あのワックスデンチャーを探していたのだ。どこかにひっそりと置いてあるような気がしてならなかった。
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